わたしの周りに、さし当たり、手に届く範囲に、
おもらしおねしょをしてしまった女性のエピソードを
見つけることはできない。
可能性から考えてみれば、人は誰しも毎日排泄をするし、
自身を省みても、おもらしおねしょについてまったく覚えがない、
ということは無いだろうから、
少なくとも誰しもが、それなりのおもらしおねしょの逸話を
持ち合わせている、と言って差し支えはないであろう。
にもかかわらず、身の回りで出会うことはない。
確かに存在しているはずなのに、見いだすことはできない、
それは、もはやある種の神秘性さえ帯びて。
*
翻って、インターネット上にはたくさんの
おもらしおねしょのエピソードを見つけることができる。
画面のむこうの彼女たちが本当に実在するのか、
彼女たちの語る言葉が、掲げる画像が、一切の嘘偽りのないものなのか、
わたしには分からない。
だが、画面上の彼女たちを信じるとすれば、
おもらしやおねしょをしてしまう女性は確かに存在する、
と、言える。
わたしは、女性のおもらしおねしょの逸話を聞くことが大好きだ。
それはもうほとんど、わたしの生きる活力、明日へ向かう希望とすら
言ってよいと感じている。
画面の向こうの彼女たちに触れることはできない。
真実かどうか確かめることもできない。
だが、その語る言葉は、見せる光景は、確かにわたしを励まし、
慰め、赦し、救済する。
それは、神の施しそのものではないか。
ならば、わたしが彼女たちに抱く思いは、「信仰心」ではないのか。
*
ここにきてわたしは、おもらしおねしょとの新たな関わりに
たどり着いたように思う。
おもらしおねしょは、わたしにとって「信仰」であり、
だとしたらわたしは、敬虔に、神を頌え、自らを律し、
ただひたすらに、その道を歩み続ける。
それこそが、わたしとおもらしおねしょとの関わりなのではないか。
「救われるため」に神を信じるのではない。
「神を信じる」という「生き方」、すなわち
ただ手を合わせ、頭を垂れ、祈る、それ自体が
世俗の迷いの中に細くしかし美しく輝き、わたしを導くのだ。
弥栄。
*
何を言ってんだろーなー、って自分でも思うんですけど、
おもらしおねしょと直接的な「性欲」が切り離された
今のわたしにとっての「おもらしおねしょ」の
ひとつの「回答」ではあるように感じています。
何言ってんだろーなー、とは思うけど。

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