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ブログ・おもらし抒情

おしっこは我慢するけど 言いたいことは我慢しません。

信仰告白。

わたしの周りに、さし当たり、手に届く範囲に、
おもらしおねしょをしてしまった女性のエピソードを
見つけることはできない。

可能性から考えてみれば、人は誰しも毎日排泄をするし、
自身を省みても、おもらしおねしょについてまったく覚えがない、
ということは無いだろうから、
少なくとも誰しもが、それなりのおもらしおねしょの逸話を
持ち合わせている、と言って差し支えはないであろう。

にもかかわらず、身の回りで出会うことはない。
確かに存在しているはずなのに、見いだすことはできない、
それは、もはやある種の神秘性さえ帯びて。



翻って、インターネット上にはたくさんの
おもらしおねしょのエピソードを見つけることができる。
画面のむこうの彼女たちが本当に実在するのか、
彼女たちの語る言葉が、掲げる画像が、一切の嘘偽りのないものなのか、
わたしには分からない。
だが、画面上の彼女たちを信じるとすれば、
おもらしやおねしょをしてしまう女性は確かに存在する、
と、言える。

わたしは、女性のおもらしおねしょの逸話を聞くことが大好きだ。
それはもうほとんど、わたしの生きる活力、明日へ向かう希望とすら
言ってよいと感じている。

画面の向こうの彼女たちに触れることはできない。
真実かどうか確かめることもできない。
だが、その語る言葉は、見せる光景は、確かにわたしを励まし、
慰め、赦し、救済する。
それは、神の施しそのものではないか。
ならば、わたしが彼女たちに抱く思いは、「信仰心」ではないのか。



ここにきてわたしは、おもらしおねしょとの新たな関わりに
たどり着いたように思う。
おもらしおねしょは、わたしにとって「信仰」であり、
だとしたらわたしは、敬虔に、神を頌え、自らを律し、
ただひたすらに、その道を歩み続ける。
それこそが、わたしとおもらしおねしょとの関わりなのではないか。
「救われるため」に神を信じるのではない。
「神を信じる」という「生き方」、すなわち
ただ手を合わせ、頭を垂れ、祈る、それ自体が
世俗の迷いの中に細くしかし美しく輝き、わたしを導くのだ。
弥栄。



何を言ってんだろーなー、って自分でも思うんですけど、
おもらしおねしょと直接的な「性欲」が切り離された
今のわたしにとっての「おもらしおねしょ」の
ひとつの「回答」ではあるように感じています。
何言ってんだろーなー、とは思うけど。

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