自分がたりとかも含めて。
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創作のおもらしよりも現実のおもらしのほうが魅力的だと、
この数年、ずっと思っている。
エックスをはじめとしたSNSを通じ、おもらしやおねしょをする
女性が実在すると知った。
それまでは、身の回りに、少なくとも目にするところに
おもらしやおねしょをする女性はいなくて、
だから、女性のおもらしやおねしょへの憧れを、
妄想やあるいは創作を通じてしか満たすことができなかった。
けれど、おもらしやおねしょをする女性は実在する。
どんなに妄想しても、創作しても、
女性のおもらしやおねしょを完全に再現することは、きっとできない。
もちろん、妄想だからこその都合のよさや、創作ならではの劇的な展開など、
妄想や創作ゆえの「魅力」があることは間違いないし、
女性の実在のおもらしおねしょにしたって、「既に過去」であるのなら、
それは「ここにはない」と言えるのかもしれない。
けれど、実在のおもらしおねしょには、
そこに至るまでの経過や、葛藤、こころの動きが確かにあるはずで、
「おもらし、おねしょをした」という事実と、
確かにそこにある「こころの動き」を「想像する」時の
「ときめき」が、きっとわたしを今も捕らえて離さないし、
まして、複数回のおもらしの経験がある方なら、
その都度、すなわち複数回の過程や心の動きと言った
「ドラマ」があるわけで、それは、
長編小説や連続ドラマの如き、「毎回のどきどき」を備えている、
と思うのである。
何の話かというと、
「複数回おもらしの経験がある女性のおもらしエピソードを
たくさん聞きたい」
ということである。
さて、ではわたしにとって、
「実在の女性のおもらし、おねしょ」は
「物語と同じ」、
突き詰めて言えば「娯楽」ということなのか?
それは、また別のお話。
*
同じかたちの傷口をさがして
どうしたいの
舐め合いたいの
あなたはあかい血
わたしはくろい血
痛みのかたちは同じでも
分かり合えはしないんだよ
*
拍手をいただいています。
ありがとうございます。
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