思っていることをつらつら。
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一般的に、おもらしとそれにまつわる一連の出来事は、
当人にとってつらい、苦しい、恥ずかしい、情けない、
負の出来事だろうと思う。
けれどわたしは「女性のおもらし」に、得も言われぬ
高揚を覚える。
それは決して、女性の不幸な姿を見ることで高揚しているわけではない、
と、自分では思っている。
なぜなら、他人の不幸をよろこぶようなことはしたくないから。
わたしはあくまで「おもらし」という事象に惹かれている、
と自分では思っている。
わたしにとって「おもらし」は、
「色白の女性が好き」とか「女性の笑顔が好き」と同一である。
「色白」も「笑顔」も、それ自体は不幸ではない。
先述のように、「おもらし」にはそもそも「負の側面」が
多分に含まれている、と言えるだろう。
けれどわたしは、わたしが惹かれているのは「色白」や「笑顔」と
同列の、一つの事象としての「おもらし」なのだ(と、思いたい)。
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「明日はきっといいことがある」、誰しもそう、
こころのどこかで、信じているのではないか。
ここにはまだないけれど、いつかおとずれて欲しい、
それは「偶然」のような「幸福」。
努力しても必ず結果が伴うとは限らない現代、
せめて、「偶然おとずれるかもしれない幸福」を
心待ちにしてもいいのではないか。
わたしにとって、この偶然の幸福とは、
紛れもなく「女性のおもらしのお話を聞くこと」である。
だから、「まだ知らぬ女性のおもらし」を思うとき、
こんなにも胸がときめくのだ。
「明日はきっといいことがある」、そう、未来に期待するときの、
何とも言えない幸福感、満たされる思い。
どんなに願っても思い通りにはならない、けれど、信じていたい、
それはきっと、かたちのない「希望」。
わたしにとって、この女性のおもらしとは、
紛れもなく「明日への希望」なのである。
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おもらしという、おそらく「不幸」を願う
わたしと言う、罪深き「」。
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金木犀のかおりがすると、おトイレの芳香剤を思い出す。
一面の金木犀がかおる秋は、すべてがおトイレです。
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拍手をいただいています。
ありがとうございます。
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