なんだかごちゃごちゃいろいろと。
例えば、
あなたは車を運転していて、助手席に乗せた
女の子がおしっこを我慢している
あなたは彼女のためにトイレを探し車を
走らせる。横目で彼女を気にするけれど、
運転に手いっぱいで凝視することはできない
ようやくコンビニを見つけ、車を停める。
見ると、彼女はうつむいたまま。
ショートパンツにはくっきりおもらしの跡が
残っている
「おもらしの瞬間・最中」の描写がなくても、
例えば、「我慢」と「その後」だけで十分
お話ができてしまう気がする。
逆に、実際目の前におもらしをしている
「最中」の女の子がいたとして、
「リアルタイム」で彼女からどれほどの「情報」を
感じられるか
(すなわち、「最中」をどれだけ描写できるか)。
「おもらしの最中」はもちろん、
「おもらし(のお話)」のクライマックス
なのだけど、その「瞬間」、あるいは
「(瞬間の連続としての)おもらしの最中」が、
描写されていなかったとしても、
「おもらし(のお話)」は成り立つとしたら。
「おもらしの最中」だけではなくて、
「おもらしにいたるまでの経緯」や、
「おもらしの後」を含めての「おもらし」、
という感じ方って、とても「活字的」、
あるいは「漫画的」、すなわち、
「動画的でない」わね、と。
テレビアニメだといろいろな事情があって、
「おもらしの最中」を描かずに
(直接的な描写を無しに)「おもらし」を見せなければ
ならず、動画でありながら「おもらしの最中」が
無いことも多いだろうけれど、
おもらし動画、と謳っておいて、
我慢描写だけだったら、ぜったいくやしい気持ちになる。
きっと、「リアルタイムでのおもらしの最中」が、
一番の見せ場になる。
けれど、「小説」や「漫画」なら、
「おもらしの最中」が描写されていなくても、
「おもらし(の魅力)」を伝えることが
できる、のではないか。
ちなみに、動画のようなリアルタイムでの
「おもらしの最中」を、活字や漫画で表現することは
可能なのか。
某先生の『kiss×sis』のおもらし描写は、コマ割とか
カットとか、かなり動画的な気がする。
小説だとなんだろ。幣サイトで紹介させていただいている
児童書だと、『四年一組ミラクル教室』などが、そうかしら。
逆はけっこうあるのに。
先述したけれど、例えばテレビアニメの「おもらし」。
直接おもらしの「最中」を描いていないのに、
「おもらし」が伝わる(気がする)。
『ラストエグザイル』とか『ソラノオト』とか秀逸。
あと実写だと『女王の教室』(笑)。
なんだかすごい脱線してしまったわん。
最初は、
気づいたら隣の女の子がおもらしをしていた
=
おもらしの瞬間、は見ていなくても、
あ、おもらししちゃったんだ、って
気付いた瞬間にすごいどきどきするよね!
って話をしようと思ってたのに。
どうしたこと。
ごちゃごちゃ。
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